何でも見てやろう!瀬戸内海の小さな旅!

瀬戸内海を気の向くままドライブ! 名所、イベント、自然、街並み、建築物、夜景などなど、何でも見て回ります! 写真撮りの旅! 瀬戸内海の歴史的人物・著名人、数々の伝説も紹介していきます。

室積半島(2)「海商通り」と「みたらい通り」~歴史と文学の海風に吹かれて(山口県光市室積)

室積半島の海商通り。普賢寺前と早長八幡宮を結ぶ通りが海商通りです。車を置いて、ぶらぶらと歩いて光ふるさと郷土館(左手前の建物)まで来ました。遠くの左側に専光寺、その向こうの右側に海商館があります。海商通りは古い家屋を生かしたお店が点在し、室積港が北前船の寄港地として栄えた当時をしのばせる通りです。【他の写真】

 

 

専光寺(海商通り)。浄土宗・専光寺(創建は不明)は室町時代大内氏の頃から外交使節や高官をこの寺で接待していたことから「外来館・官の館」と呼ばれ、毛利氏の時代には渉外館として利用されました。慶応元年(1865年)1月、この専光寺で後の第二奇兵隊となる「真武隊」が結成され、2月に本拠地を普賢寺に移し南奇兵隊と改称されました。さらに4月に石城山(いわきさん・標高362m・光市・田布施町)山頂の神護寺に本営を移し、第二奇兵隊となりました。なお、幕末諸事件の裁判もこの寺で開かれています。【他の写真】

 

 

海商館(海商通り)。旅館を改装した海商館は陶器と軽食の店として2002年12月に開店しました。今日は定休日でしたが、以前に食事したことがあります。1階は雑貨と地元で焼かれた陶器や美濃焼が販売され、2階のお座敷は瀬戸内海の室積湾を眺めながら食事ができます。アツアツの石釜に盛られた石焼きそばが名物です。ドリンクも充実しています。2階にも雑貨がありました。アジア各国の雑貨品も。【他の写真】

 

 

北町児童遊園地(みたらい通り)。東屋や遊具などがありました。みたらい通りは、室積湾に面した室積半島の海岸通りです。室積湾は御手洗湾(みたらいわん)とも呼ばれています。【他の写真】

 

 

北町児童遊園地の東屋から室積湾(御手洗湾)を望む。【他の写真】

 

 

みたらい燈籠堂(とうろうどう・室積みたらい公園)。北町児童遊園地の隣にあります。元禄十五年(1702年)に象鼻ヶ岬に設置されていた燈台を平成3年3月に復元したものです。当時は油を燃やし、それを管理する人夫(灯台守)もいました。室積港は賑わっていました。【他の写真】

 

 

種田山頭火の句碑(室積みたらい公園)。みたらい燈籠堂の近くにあります。「わがままな旅の雨にぬれてゆく」。昭和8年、山口県女子師範学校(現・山口大学教育学部附属光小学校・中学校)の教師、大前誠二(当時25歳)は室積に下宿していましたが、山頭火を俳句の師として非常に尊敬していました。この大前の下宿に山頭火(当時51歳)は、5月14日から16日まで2泊3日滞在しました。大前はご馳走と酒で、至れり尽くせり持て成しました。山頭火は16日に大前の下宿を去る時、すでに出勤して不在の大前に置き手紙に残して去りました。この句碑はその置き手紙に記された俳句の中の1句ですが、実際に山頭火が詠んだ句は「わがまゝきまゝな旅の雨にはぬれてゆく」です。ちなみに、大前誠二は後に兵庫県教育長に任ぜられました。【他の写真】

 

 

室積みたらい公園。みたらい通り沿いの室積みたらい公園には、山頭火の句碑、磯永秀雄詩碑、丸岡忠雄詩碑などの文学碑が建っています。【他の写真】

 

 

丸岡忠雄詩碑「つばめ」。丸岡忠雄(1929年~1985年)は山口県光市出身の詩人。県立光中学校から熊本陸軍幼年学校に入学。戦後国立宮崎高等農林学校卒。18歳頃から詩作を始め、同和問題にも取り組みました。家業として印刷業を営みました。「ふるさとー詩集」(兵庫部落問題研究所発行・122頁・1979年)など五冊の詩集を出しています。【他の写真】

 

 

磯永秀雄詩碑「海がわたしをつつむ時」。磯永秀雄(1921年~1976年)は旧朝鮮仁川生まれ。東京帝国大学文学部美学科入学。学徒動員で南方へ。戦後山口県光市に居住し、高校教師をしながら詩作を続けました。1951年、詩集「浮灯台」で第1回山口県芸術文化振興奨励賞受賞。著書は「浮灯台」「別れの時」など詩集や童話集多数。【他の写真】

 

 

普賢寺の普賢堂前の突堤から「周防の橋立」象鼻ヶ岬(瀬戸内海国立公園)を望む。歴史と文学の海風に吹かれて「海商通り」と「みたらい通り」を歩いて来ましたが、ここで一休みです。【他の写真】

 

 

普賢寺の普賢堂前の突堤から山口大学教育学部附属光小学校・中学校を望む。このあと象鼻ヶ岬入口まで車で行き砂浜で写真撮りをしました。【他の写真】

湯木慧「存在証明」