何でも見てやろう!瀬戸内海の小さな旅!

瀬戸内海を気の向くままドライブ! 名所、イベント、自然、街並み、建築物、夜景などなど、何でも見て回ります! 写真撮りの旅! 瀬戸内海の歴史的人物・著名人、数々の伝説も紹介していきます。

錦帯橋と桜(5)周辺の群像・モニュメント(山口県岩国市横山)

【剣豪・佐々木小次郎の像(吉香花菖蒲園)】 後方の城山の上には岩国城が見えます。吉川英治の小説「宮本武蔵」には佐々木小次郎(ささき・こじろう)は「先祖以来、岩国の住」と記されています(その他の説もあります)。毛利氏に仕えた後、小倉藩の剣術師範になりました。1612年5月13日(慶長17年4月13日)、山口県下関市の巌流島(関門海峡)で宮本武蔵(当時29歳)と決闘を行い、佐々木小次郎は敗れて亡くなりました(生年不詳で、享年も不詳)。両者の決闘の理由は、それぞれの弟子が互いに師の優劣でもめて争いになったと言われています。【他の写真】

 

 

【巌流ゆかりの柳(錦帯橋近く・錦川河畔)】 佐々木小次郎は「巌流」と名のっていました。小説「宮本武蔵」では、秘剣「つばめ返し」は、錦川の河畔で揺れる柳の枝を切り、また水辺を飛び交うツバメを切り落として編み出した剣法と言われています(他の説もあります)。【他の写真】

 

 

吉川広家銅像吉香公園・北東区域)】 岩国領初代領主・吉川広家(きっかわ・ひろいえ)公の銅像です。2023年(令和5年)11月4日除幕式が行われました。岩国市出身の東京造形大学名誉教授・小川幸造(1953年生まれ・彫刻家・新制作協会展新作家賞受賞・新制作協会会員推挙・文化庁現代美術選抜展)により制作されました。吉川広家は1561年(永禄4年)生まれ。1625年(寛永2年)死去。享年65歳。1600年(慶長5年)の関ケ原の戦いでは、東軍の徳川方と交渉して毛利家を救いました。後に毛利家との確執から「岩国藩」ではなく「岩国領」とされ、吉川広家は初代領主に就任しました。けれども、徳川幕府からは外様大名として扱われ、大名行列も許されました。「岩国藩」として認められたのは大政奉還後の1868年(慶応4年)3月、新政府になってからです。広家公は岩国領主となってからは岩国の開発に力を注ぎ、現在の岩国市の基礎を築きました。【他の写真】

 

 

【クリスタルベンチ(吉川広家銅像の前)】 クリスタルベンチは人々の新たな息吹と、岩国の時の流れを透明なベンチに封じ込め、岩国の輝ける未来を暗示し、生み出されました。 制作は岩国市出身の建築家・窪田勝文(くぼた・かつふみ・1957年生まれ・モダンリビング大賞グランドチャンピオン・バルバラ・カポキン国際賞・デダロ・ミノッセ国際賞・同審査員・広島女学院大学特任教授)。【他の写真】

 

 

【吉川広嘉公銅像錦帯橋近く・佐々木屋小次郎商店前)】 岩国領3代領主・吉川広嘉(きっかわ・ひろよし)公は1621年(元和7年)生まれ。1679年(延宝7年)死去。享年59歳。1673年(延宝元年)錦帯橋創建。吉川広嘉は長い闘病生活を送る中、医師として名高い明からの帰化僧、独流(どくりゅう)と出会い、独流が所持していた「西湖遊覧誌」を見て、錦帯橋の構想を得たと言われています。【他の写真】

 

 

【田中穂積銅像(吉香神社前)】 田中穂積(たなか・ほづみ)は1855年(安政2年)岩国生まれ。1873年(明治6年)海軍軍楽隊入隊。明治28年勲八等瑞宝章。明治32年佐世保鎮守府海軍軍楽長。明治35年佐世保女学校で音楽を教授。音楽教材として、”日本初のワルツ”と言われる「美しき天然」を作曲(作詞は武島羽衣)。1904年(明治37年)長崎県佐世保市の病院で心臓麻痺により死去。享年49歳「美しき天然」の曲はこちら。【他の写真】

 

 

藤岡市助博士の立像(岩国城ロープウェー山麓駅駐車場)】 ”日本のエジソン”と呼ばれた藤岡市助(ふじおか・いちすけ)博士は1857年(安政4年)岩国生まれ。1918年(大正7年)死去。享年60歳。明治8年工部大学校(電信科)入校。明治13年電信技術の教科書を執筆。明治14年工部大学校を首席で卒業。明治17年、27歳で工部大学校教授。ニューヨークでエジソンと会談。29歳で帝国大学工科助教授。その後辞任し東京電燈を設立、技師長に就任。明治23年電球製造の白熱社(後の東京電気株式会社)を創設。第3回内国勧業博覧会で日本初の電車、東京電燈スプレーグ式電車を走らせました。浅草でエレベーターも作りました。明治40年岩国電気軌道株式会社社長に就任し中国地方初の路面電車を走らせました。【他の写真】

 

 

【重宗雄三銅像錦帯橋いざない街道)】 銅像の横には重宗雄三の経歴が記してあり、昭和五十六年三月十三日 岸 信介とあります。元参議院議長・重宗雄三(しげむね・ゆうぞう)は1894年(明治27年)2月11日岩国市生まれ。1976年(昭和51年)3月13日死去。享年82歳。政治家。山口県出身の岸信介佐藤栄作とともに「長州ご三家」と言われています。東京商工附属工業補習学校卒。明電舎社長。昭和21年貴族院議員。第2次岸内閣の運輸相。昭和37年から3期参議院議長。参議院自民党の佐藤派を率い重宗天皇と呼ばれる重宗王国を築きました。参議院議長在任日数の3242日は参議院史上最長記録。従二位、勲一等旭日桐花大綬章。【他の写真】

 

 

【久能寅夫銅像錦帯橋いざない街道)】 久能寅夫(くのう・とらお)は1890年(明治23年)岩国市生まれ。1977年(昭和52年)2月27日死去。享年87歳。九州帝国大学工学部卒。呉海軍工廠勤務。大正14年ジュネーブ国際労働会議出席(海軍連盟中央委員長)。舞鶴海軍火薬廠製造部長、東洋曹達徳山工場長。戦後、昭和26年岩国市長。岩国商工会議所会頭。岩国市名誉市民。【他の写真】

 

 

【立志の碑(吉香公園・南区域)】 田島直人(たじま・なおと)は1912年(大正元年)8月15日岩国市生まれ。1990年(平成2年)12月4日死去。享年78歳。陸上競技選手で1936年(昭和11年)のベルリンオリンピック三段跳び>金メダリスト・<走り幅跳び>銅メダリスト。「立志の碑」には田島直人の言葉「勝利の喜びは 努力の過程にあり 勝利の結果にはない」が刻まれています。旧制岩国中学校(現・岩国高校)卒。山口高校(現・山口大学)卒。京都帝国大学(現・京都大学)経済学部卒。日本オリンピック協会常任委員。1964年東京オリンピックでは日本陸上チームのコーチ。岩国市名誉市民。【他の写真】

 

 

【彫刻「石の翼」(吉香公園・西区域)】 彫刻「石の翼」は彫刻家・澄川喜一の彫刻作品。澄川喜一(すみかわ・きいち)は1931年(昭和6年)5月2日島根県生まれ。2023年(令和5年)4月9日死去。享年91歳。彫刻家。岩国工業高校卒。東京芸術大学美術学部彫刻科卒。東京芸術大学学長。紫綬褒章紺綬褒章日本芸術院賞など。文化功労者東京スカイツリーデザイン監修。2020年文化勲章【他の写真】

 

 

【彫刻「和」(吉香公園・西区域)】 彫刻の男女像「和」は野外彫刻家・山内壮夫(やまうち・たけお)の彫刻作品で、岩国市役所にあったものを、新庁舎完成に伴い、ここに移しました。山内壮夫は1907年(明治40年)8月12日北海道岩見沢市生まれ。1975年(昭和50年)4月11日死去。享年67歳。彫刻家。東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)入学。1932年(昭和7年)国展で国画奨学賞。国画会同人。新制作派協会創設。1970年(昭和45年)中原悌二郎賞選考委員。新制作協会運営委員長。【他の写真】

 

 

【彫刻「日 月 星」(錦帯橋近く錦川河畔)】 彫刻「日 月 星」は澄川喜一の彫刻作品。澄川喜一の代表的な彫刻作品は「そりとそぎのあるかたち」で、1981年(昭和56年)から神戸市立中央体育館北側に設置されています。また大蛇の彫刻「OROCHI」は島根県益田市島根県芸術文化センターグラントワ」に設置されています澄川喜一は2005年(平成17年)4月から2022年(令和4年)6月まで「グラントワ」のセンター長を務めています。【他の写真】

こぴ「サクラ色」