【楊貴妃型石灯籠(ようきひがたいしどうろう)】 縮景園の中には、随所にいろんな型の石灯籠が点在していますが、清風館西側の少し離れた場所に楊貴妃型石灯籠がありました。火袋(ひぶくろ=灯火が入る空洞部分)の上の笠の形が楊貴妃(よう・きひ・中国唐代の皇妃・719年~756年)が着用していた冠に似ていることから命名されました。京都市北区にある臨済宗大徳寺派・聚光院(じゅこういん)にある千利休(せんの・りきゅう・茶人・商人・1522年~1691年)の墓も楊貴妃型石灯籠です。楊貴妃型石灯籠は日本国内に2基しか存在しない貴重なものです。【他の写真】

【流川(ながれかわ・縮景園西側)】 縮景園の池(泉水)、濯纓池(たくえいち)の水は縮景園の北側を流れる京橋川(きょうばしがわ・広島市の市街地東部を流れる一級河川)から引かれています。その濯纓池の水は、南に向かって流れていた流川を通り広島湾に出ていました。流川は埋められ、現在は繁華街の地名として残っています。なお、濯纓池の水は汽水(きすい=海水と淡水が混ざり合った塩分が低い水)で、常に塩分濃度を測定して魚が弱らないように調整されています(塩分濃度測定器により濯纓池内数カ所を測定、5%を越えないように地下水で希釈)。【他の写真】

【有年場(ゆうねんじょう・縮景園東側)】 縮景園の東の一画にある小さな水田です。江戸時代、この水田で安芸国広島藩の藩主(浅野家)が田植えをして、その年の豊作を祈願していました。この水田では毎年稔が有ることから「有年場」と呼ばれています。現在でも田植えが行われており、毎年6月には「田植えまつり」が開催されています。今年は6月8日(日)に開催され、田植茶会(清風館)や、午後から南条踊りも披露されます。【他の写真】

【看花榻(かんかとう)】 この看花榻のすぐ北側には大きな京橋川流れています。看花榻の看花(かんか)は「花を見る」、榻(とう)は「腰掛け、座席」の意味で、藩主がこの場所から座ったままで、京橋川を行き来する多数の船や、対岸の桃林を眺めていました。座席の面がロクロ式で回転するように造作がされていました。ちなみに毛利輝元(もうり・てるもと・毛利氏14代当主・1553年~1625年)が広島城に入城した1591年に、大きな川に木橋が架橋されましたが、その橋は城から京都へ続く橋として「京橋」と名付けられました。その大きな川はこの「京橋」を由来として「京橋川」と命名されました。【他の写真】

【超然居(ちょうぜんきょ)】 木造平屋建てで寄棟造・茅葺の四阿(あずまや)である超然居は、濯纓池の中では最大の島に建つており、観瀾橋(かんらんはし)と洗心橋(せんしんはし)の2橋で結ばれています。広島藩第7代藩主・浅野重晟(あさの・しげあきら)は京都の作庭家・清水七郎右衛門(しみず・しちろううえもん・尾道出身)を招き、1783年から8年かけて庭園(縮景園)の大改修を行いました。けれども、超然居周辺の模様は上田宗箇(うえだ・そうこ・武将・茶人・造園家・1563年~1650年)の代表的な造作といわれており、清水七郎右衛門は上田宗箇の意志を尊重し、大改修においても、ここには手を加えなかったと言われています。超然居は1945年(昭和20年)8月6日の原爆投下で焼失しましたが、1970年(昭和45年)に再建されました。【他の写真】

【島嶼(とうしょ)】 縮景園は中国杭州の西湖(せいこ)の景観を模して作庭されたと言われています。濯纓池には鶴と亀をかたどった大小14の島が浮かんでいます。中央の跨虹橋(こうこきょう)で東西に分けられて、島が点在しています。鶴の島は東西に1島ずつあります。あとは亀の島です。跨虹橋は虹をまたぐ橋として中央が大きく反っています。【他の写真】

【縮景園の遊歩道から右前方の跨虹橋を望む】 悠久の歴史が偲ばれる大名庭園に思いを巡らせて遊歩道を散策すると心が悠然となりました。濯纓池の島々、癒しの超然居、泉水にかかる跨虹橋や三橋、古風な悠々亭、美しい銀河渓、水のほとばしる岩場、庭園を彩る木々などなど、日常の喧騒を忘れて、縮景園の歴史と自然に癒されました。また来たいと思います。春から夏にかけては、4月6日(日)観桜茶会、4月29日(火)茶摘みまつり(茶会)、5月25日(日)しょうぶ茶会、6月8日(日)田植えまつり、7月6日(日)七夕茶会、8月1日(金)原爆犠牲者慰霊供養式などの行事が予定されています。【他の写真】
