何でも見てやろう!瀬戸内海の小さな旅!

瀬戸内海を気の向くままドライブ! 名所、イベント、自然、街並み、建築物、夜景などなど、何でも見て回ります! 写真撮りの旅! 瀬戸内海の歴史的人物・著名人、数々の伝説も紹介していきます。

ひろしま美術館(6)コレクション展示<2>フォーヴィスムとエコール・ド・パリのアーティストたち(広島県広島市中区基町3-2)

【「女の半身像」(パブロ・ピカソ)】 パブロ・ピカソ<スペイン・1881年(明治14年)10月25日~1973年(昭和48年)4月8日・享年91歳>。スペイン南部マラガ市で生まれました。父は美術教師、美術館学芸委員長、画家。ピカソの絵画動向はキュビスム(立体派)とシュルレアリスム(超現実主義)。最も多作な美術家としてギネスブックに登録されています。代表作は「花のバスケットを持つ裸の少女」「アビニヨンの娘たち」「ゲルニカ」。ピカソは幼い頃から絵の才能があり、8歳で油彩を描き、美術の英才教育を受けました。ラ・コルーニャの美術学校卒。バルセルナの美術学校卒。マドリードで開催された国立美術展で入選。マラガの地方展で金賞。王立美術アカデミー中退。パリに移り絵画制作を続け個展を開きました。イギリスのカーネギー賞受賞。スペインのプラド美術館長に就任。ニューヨーク近代美術館で個展。1944年フランス共産党入党。1956年のカンヌ国際映画祭で映画「ミステリアス・ピカソ/天才の秘密」が審査員特別賞受賞(1984年フランス国宝に指定)。1970年バルセロナピカソ美術館開館。南フランスのニース近くの自宅で肺水腫により死去。再婚の妻ジャクリーヌはピカソの死後13年目にピストル自殺しました。【他の写真】

 

 

【「カレーの市民(第2試作)」(オーギュスト・ロダン)】 オーギュスト・ロダン<フランス・1840年(天保11年)11月12日~1917年(大正6年)11月17日・享年77歳>。パリの労働者階級の子として生まれました。近代彫刻の父。代表作は「地獄の門」「考える人」「カレーの市民モニュメント」「大聖堂」。ロダンは独学で彫刻を学びました。姉の死から修道士になろうとしましたが、司教はロダンに美術の道を続けるように諭しました。その後ベルギーに移住して彫刻の技法を修錬し彫刻家として制作を続けました。1880年パリに国立美術館を建てるので、そのモニュメントの制作依頼がロダンにきました。ロダンは「地獄の門」を構想しました。その後1888年に美術館建設は中止されましたが、ロダンは「地獄の門」の制作を続けました(未完)。1917年ロダンは死期の迫った妻、ローズと正式な結婚手続きをしました。その16日後にローズは死去し、9か月後にロダンも死去しました。ロダン77才、ローズ73才でした。【他の写真】

 

 

【「牝鹿と二人の女」(マリー・ローランサン)】 マリー・ローランサン<フランス・1883年(明治16年)10月31日~1956年(昭和31年)6月8日・享年72歳>。パリで私生児として生まれましたが、父は代議士・市長のアルフレッド・トゥーレでした。キュビスムの女性画家・彫刻家。代表作「アポリネールとその友人たち」「二人の少女」「接吻」。パリの美術アカデミー卒。絵画の制作を続けました。ドイツ人貴族と結婚しドイツ国籍となりましたが、第一次世界大戦後離婚し、パリに戻りました。その後ローランサンは同性愛者にもなりました。パリの上流社会ではローランサン肖像画を注文することが流行になりました。彼女の描く美しい女性は優雅さと官能性を醸し出し圧倒的な人気を得ました。ココ・シャネルが頼んだ絵はオランジュリー美術館が所蔵。第二次世界大戦後も創作活動を続けました。1954年、シュザンヌ・モローを養女にしました。その2年後ローランサンはパリの自宅で心臓発作により死去しました。世界で唯一の「マリー・ローランサン美術館」(収蔵点数500点)が1983年に日本の長野県茅野市に開館しましたが、2011年に閉館しました。【他の写真】

 

 

【「モンモランシーの通り」(モーリス・ユトリロ)】 モーリス・ユトリロ<フランス・1883年(明治16年)12月26日~1955年(昭和30年)11月5日・享年71歳>。パリで画家である母の私生児として生まれました。後にスペインの画家・美術評論家がモーリスを自分の息子として認知しました。モーリス・ユトリロは近代フランス、エコール・ド・パリ(パリ派=各地からパリのモンマルトルやモンパルナスに集まりボヘミアン的な生活をしていた外国人画家のアーティストたち)の画家。代表作は「ラパン・アジル」「コタンの袋小路」「パリのサント=マルグリート教会」。8歳の時精神薄弱と診断されました。アルコール依存症となり20歳の時精神病院で自殺未遂。28歳の時、泥酔と猥褻罪で起訴されました。酒好きで居酒屋で赤ワインをリットル単位で飲んでいたので、ユトリロならぬ「リトリロ」と呼ばれました。モンマルトルで絵を描き始め、やがて画家として高く評価され、絵も高値で売れ始めました。ユトリロはとても多作でしたので、月に6点以上は描かないように忠告されました。精神病院に入退院を繰り返しながら描き続けました。生涯、赤ワインのみをひたすら飲み続け、精神はともかく肉体的には健康で、当時としては長寿を全うしました。ユトリロの生涯は映画化もされています。【他の写真】

 

 

【「赤い室内の緑衣の女」(アンリ・マティス」】 アンリ・マティス<フランス・1869年(明治元年)12月31日~1954年(昭和29年)11月3日・享年84歳>。フランスのル・カトー=カンブレジで、豊かな穀物商人の長男として生まれました。画家でフォーヴィスム(野獣派=原色を多用した鮮やかな色彩と大胆な筆触が特徴で感覚や感情を色彩で表現)のリーダー的存在。代表作「ブーローニュの森」「豪奢、静寂、逸楽」「赤のハーモニー」。18歳の時父の命で法律を学び、翌年、法科資格試験に合格。法律事務所で働いていましたが、画家を志望するようになりました。父は非常に失望しましたが、パリの美術学校に入学しました。1896年に国民美術協会のサロンに出品し、1点が国家買上げとなりました。結婚後、大胆な色彩を特徴とする作品を次々に発表しました。南フランスのニースを制作の場として活動しました。アトリエは植物園のようで、大好きな鳥は300羽も飼っていました。このアトリエから数々の傑作が生まれました。腸の手術で体力が次第に衰え、「切り紙絵」の制作に変更しました。ニースで心臓発作により死去。【他の写真】

 

 

【「河のほとり」(マルク・シャガール)】 マルク・シャガール<ロシア(現ベラルーシ)・1887年(明治20年)7月7日~1985年(昭和60年)11月3日・享年98歳>。帝政ロシア領ヴィテブスク(現ベラルーシのヴィーツェプスク)で生まれました。両親はユダヤ人で父は農業と職人の兼業でした。マルク・シャガールはフランスの画家で「色彩の魔術師」「愛の画家」などと呼ばれています。1907年ペテルブルグの王立美術奨励学校に入学。翌年退学しレオン・パクストの美術学校に入学。1910年パリに行きキュビスムに影響された作品を制作。帰郷するが母が死に、再びパリへ戻りました。1941年ナチスの迫害を避けてアメリカに亡命。第二次世界大戦後再びパリに戻りフランス国籍を取得、彫刻制作も始めました。エラスムス賞受賞。オペラ座の天井画を作成。86歳の誕生日に国立マルク・シャガール美術館が開館。シャガール94歳の時日本の本田宗一郎シャガール邸を訪問しています。1966年から20年近く暮らしたフランスのニース近くのサン=ポール=ド=ヴァンスで死去。【他の写真】

 

 

【「ルーマニアの女」(キスリング)】 モイズ・キスリング<ポーランド・1891年(明治24年)1月22日~1953年(昭和28年)4月29日・享年62歳>。 オーストリア=ハンガリー帝国クラクフ大公国(現ポーランド南部)の首都、クラクフユダヤ人として生まれました。エコール・ド・パリの画家。パリ派のリーダー的存在でした。地元の美術学校を卒業し19歳でパリに出ました。ピカソ、ブラックらの活動拠点、モンマルトルのバトー・ラヴォワールに居住し絵画の制作を続けました。その後個展を開き好評を博し画家として成功しました。風景画、静物画、肖像画を主に描きました。第一次世界大戦では志願して外人部隊として戦い負傷しました。その功績でフランス国籍を取得しました。第二次世界大戦でも志願して従軍しました。フランス降伏後、ナチスユダヤ人迫害があり、アメリカに亡命しました。ニューヨーク、ワシントンD.C.で展覧会を開催しました。終戦後フランスに帰国。南フランスヴァ―ル県の港町、サナリー・シュル・メールで病没。【他の写真】

 

 

【「雪景色」(モーリス・ド・ヴラマンク)】 モーリス・ド・ヴラマンクポーランド・1876年(明治9年)4月4日~1958年(昭和33年)10月11日・享年82歳>。 フランスのパリで音楽教師の子として生まれました。フォーヴィスム(野獣派)に分類されるフランスの画家、文筆家。ゴッホに強い影響を受けました。18歳で結婚し、自転車選手をしたり、オーケストラでバイオリンを弾いたりして生計を立てました。絵画についてはほとんど独学でした。1900年共同でアトリエを構えて絵画制作を続けました。第一次世界大戦では従軍し、復員後はパリ郊外に拠点を移し風景画、静物画を多数描きました。また文筆家として執筆活動も行いました。フランス北部のリュイユ=ラ=ガドゥリエールで死去。【他の写真】

826aska「星に駆られて」