【山路商作品展示室入口(2階第2室)】 広島県立美術館2階1室の「山路商と同時代の作家達」作品展を巡った後、2室の「山路商の創作活動」作品展を鑑賞しました(展示作品は撮影不可の作品が多数あり、許可された作品の中から選んで撮影しました。また、以下の記事は広島県立美術館サイト、塩谷篤子(しおや・あつこ)氏の記事、その他の資料を参照して記しています)。
【「ソビエット領事館の裏」(山路商)】 山路商(やまじ・しょう)は1903年(明治36年)12月9日、父の勤務していた国鉄の転勤先である長岡町(現・長岡市)で生まれました。男女の双子でしたが、女の子は生まれてすぐに亡くなりました。山路商は足に障害があり、虚弱体質でした。少年時代を父の転勤先である中国の東北部、大連で過ごしました。大連の洋画研究所で絵画を学びました。【他の写真】
【「T型定規のある静物」(山路商)】 1920年(大正9年)に広島に移住し、絵画制作を中心に、詩や舞台装置、美術批評など幅広い分野で活躍しました。詩人の大木惇夫(おおき・あつお)、画家の靉光(あいみつ)らが、山路商のアトリエに集まりました。【他の写真】
【「干魚とレモン」(山路商)】 「山路商は髪は長く、黒縁のロイド眼鏡をかけ、足首まである黒いスモックをまとっていた。生まれつき足が悪かったこと、劇場に通って踊り子らの姿をスケッチをしていたことから、『広島のロートレック』と呼ばれた。山路は私の母方の伯父である。」(塩谷篤子)。塩谷篤子(しおや・あつこ)氏は島根県松江市生まれ(神奈川県鎌倉市在住)。広島大学文学部卒。翻訳者。著書に「山路商略伝: 広島のロートレックと呼ばれた男」(塩谷篤子・藤崎綾・渓水社・196頁・2014年)があります。【他の写真】
【「窓と顔」(山路商)】 1927年(昭和2年)二科展初入賞。1930年(昭和5年)に関西展朝日賞を受賞。山路は先進的な美術思想に関心を持ち、フォービスム、キュビスム、シュルレアリスムなどを研究し作品に反映させていきました。【他の写真】
【「犬とかたつむり」(山路商)】 1930年代後半にはシュルレアリスムの独創的で密度の高い作品を発表しました。「例えば1937年(昭和12年)の作品『犬とかたつむり』はシュルレアリスム的であり、形而上絵画風でもある」(塩谷篤子)。【他の写真】
【「ピエロ」(山路商)】 1936年(昭和11年)に田中万吉(たなか・まんきち)、福井芳郎(ふくい・よしろう)らと二紀会(洋画グループ)結成。1938年(昭和13年)には坂本寿(さかもと・ひさし)、灰谷正夫(はいたに。まさお)らと広島フォルム美術協会を結成。山路商は戦前期の広島の前衛美術運動のリーダーであり、また、象徴的な存在として知られています。【他の写真】
【「アネモネ」(山路商)】 戦中戦後の混乱期を経て現存する山路商の作品は決して多くありませんが、前衛精神と探求心が生んだ造形力に満ちた作品は時代を経ても色褪せることなく今なお魅了します。山路商は社会に対する開かれた目や鋭敏な感性を通じて現実世界に向き合い、独自の画風を確立しました。【他の写真】
【「自画像」(山路商)】 その前衛的な活動により、山路商は1941年(昭和16年)特別高等警察に検挙され、作品も押収され、半年余り拘束されました。釈放後は病床に伏し、1944年(昭和19年)6月26日死去。享年40歳。【他の写真】