【縮景園(しゅっけいえん)・冠木門(かぶきもん)からメイン通路を望む】 江戸時代から受け継がれてきた歴史ある大名庭園、縮景園を訪れました(昨年暮れ)。以前にも来たことがあり、今回で2回目です。「日本の歴史公園100選」にも選定されている縮景園の正門である冠木門を通って中に入りました。縮景園は1620年(元和6年)に安芸国広島藩初代藩主・浅野長晟(あさの・ながあきら・1586年~1632年・従四位下)が別邸の庭園として築成した大名庭園です。茶人としても知られる家老の上田重安(うえだ・しげやす)<=上田宗箇(うえだ・そうこ・1563年~1650年・武将・茶人・造園家・従五位下)>が作庭しました。【他の写真】
【縮景園の東側から濯纓池(たくえいち)を望む】 縮景園は、古くは「御泉水(おせんすい)」と呼ばれていましたが、二代目藩主・浅野光晟(あさの・みつあきら・1617年~1693年・従四位下・左少将)の求めに応じて、儒学者・林羅山(はやし・らざん)が作った詩の序文「海山をその地に縮め風景をこの楼に聚む」から縮景園と名称が付けられました。”聚(しゅう)む”は「沢山集まる」の意味です。縮景園は1940年(昭和15年)浅野家から広島県に寄贈され、名勝の指定を受けました。1945年(昭和20年)8月6日の原爆により壊滅しましたが、1949年(昭和24年)から復旧作庭を行い30年かけて現在の縮景園が完成しました。なお、実際に「縮景園」が正式名称になったのは戦後で、戦前までは「御泉水」と呼ばれていました。縮景園の池、濯纓池(約8000㎡)の中には縁起が良いとされる鶴と亀にちなみ、3つの鶴島と11の亀島が浮かんでいます。【他の写真】
【清風館(せいふうかん)】 冠木門から清掃の行き届いたメイン通路の真っ直ぐな砂道を50m歩くと、突き当りに清風館が濯纓池の畔に建っています。縮景園内で、代々の藩主の休憩所として愛好された清風館は、書院造りの名残を留める本格的な数寄屋造りの木造平屋建築で、屋根は杮(こけら)葺きです。1894年(明治27年)に開戦した日清戦争では大本営が広島に移され、清風館は明治天皇の居所とされました。清風館は原爆で焼失しましたが、約20年後の1964年(昭和39年)に復元されました。【他の写真】
【縮景園東部の三橋を渡る】 清風館から右手の遊歩道を進み縮景園の東部を巡り、池泉の上に架かる三橋を渡ります。三橋は映波橋、昇仙橋、望春橋からなり、それぞれ角度をずらして架けられています。三橋の右手(東側)には銀河渓と呼ばれる小さな美しい渓谷が広がっていました。園内には観光客が多くいましたが、彼らの会話の言葉から、中国人が一番多く、次に英語、その他の言語、それから日本人で、ほとんどが外国人でした。【他の写真】
【悠々亭(ゆうゆうてい・南側の三橋から望む)】 縮景園の東側奥の悠々亭は濯纓池の畔に建つ茅葺の四阿(あずまや)で、水上に浮かんでいる造りになっています。江戸時代には納涼茶会や歌会が行われていました。昭和20年の原爆で焼失しましたが、1969年(昭和44年)に復元されました。【他の写真】
【悠々亭(北側から撮影)】 悠々亭は「縮景園之記」には「岸に添ひ池に浮かびてもの清う安らに建し」と記されています。清らかな悠々亭の中は土足禁止なので、外から眺める人も多くいましたが、靴を脱いで中に入る人もいました。【他の写真】
【跨虹橋(ここうきょう)】 濯纓池に架かる跨虹橋は、天明の頃(1783年~1788年)、安芸国広島藩7代藩主・浅野重晟(あさの・しげあきら・1743年~1814年・従四位下近衛権少将)が京都の庭師・清水七郎右衛門を呼び寄せ1786年に造らせた、約240年前の太鼓橋です。石製アーチ橋と陸橋から成り、主要部分は御影石(花崗岩)です。日本百名橋(番外)にも選定されています。昭和20年の原爆にも耐えました。地上と天上を結ぶ虹に例えられている跨虹橋は中国杭州西湖にある長い堤「蘇堤」に架かる六橋の一つにも由来しています。【他の写真】
【濯纓池の鯉はきれいでした】 手をたたくと鯉がたくさん寄ってきました。鯉はとても美しいので、眺めていても飽きません。池の中には鯉のほかに淡水魚のボラなどの魚もいるそうです。2002年~2003年に夏の強烈な日照りで、池の水が減って塩分が急上昇し、順応できなかった鯉が大量死して、100匹以上いた鯉が、ほぼ全滅しました。その後、徐々に鯉が放流され復活しました。【他の写真】