何でも見てやろう!瀬戸内海の小さな旅!

瀬戸内海を気の向くままドライブ! 名所、イベント、自然、街並み、建築物、夜景などなど、何でも見て回ります! 写真撮りの旅! 瀬戸内海の歴史的人物・著名人、数々の伝説も紹介していきます。

漢陽寺(2)歴史的建造物と伝説を巡る(山口県周南市鹿野上)

臨済宗・鹿苑山漢陽寺(1374年創建)。漢陽寺参道の正面には歴史的な山門が聳え、参道の左には伝説の鏡池、右には桃山時代様式の「曹源一滴の庭(そうげんいってきのにわ)」。歴史的建造物と伝説の名刹が、私達をあたたかく迎えてくれました。【他の写真】

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鏡池。伝説の池には鯉が沢山泳いでいて、心が癒されました。【伝説】漢陽寺の開山(最初の住職)・用堂明機禅師(ようどうみんきぜんじ)が中国で修業後、1346年、帰国する船が大嵐に遭遇し難破しそうになりました。その時、観音様から「大切な2品を天空に放て。さすれば難を逃れる。いずれ、その2品が落下せし地に寺を建てることになる」とお告げがあり、出国のとき母から頂いたお守りの「八葉の鏡」と帰国前に恩師から頂戴した「カヤの木の実の念珠」を、お告げ通り、空高く投げました。すると海は鎮まり無事帰国できました。それから30年後、大内の殿様が祈願所を建立するため用堂明機禅師を鹿野に招請されました。初鍬入れで「八葉の鏡」が出土し、そこから水が湧き出て池となりました。これが鏡池です。さらに東側の山裾にはカヤの木が1本すくすくと育っていました。用堂明機禅師は「観音様のお告げの、寺を建てる場所は、やはり、この鹿野の地であったか」と、大変喜ばれ漢陽寺を建立されました。

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漢陽寺・山門。立派な門です。建立時期は不明ですが、1677年の大火災後、当時の大名・毛利氏の加護により再建されました。右側の扉の下の部分には穴がありました。戊辰戦争後の冷遇に不満を募らせた長州藩諸隊の一部兵士が反乱を起こし、明治2年5月8日、漢陽寺に立て籠もりました。その際、追手の長州藩の兵士が大筒(戦国時代後期~江戸時代の大砲)を撃ち込んだ砲弾跡です。山門は平成18年(2006年)に大修理されましたが、扉は当時のまま残してあります。【他の写真】

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山門から参道を望む。きれいに整備された参道です。参道の向こう(南方向)には、中国山地西端の高原の町、鹿野の町並みが広がっています。山口県最大の河川、錦川の源流となる美しい清流の周辺にはカフェやレストランもありました。心が癒される町でした。

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本堂。本堂は、大内氏が創建した当時の様式を復元した優雅な方丈建築により、平成2年(1990年)に再建されました。方丈とは、元々、禅宗寺院における住職の住まいをさしていましたが、現在では法要の中心の場となっています。【他の写真】

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法堂。山門と同時期の建立と思われるとのことです。僧侶が仏教を講義する場で、伽藍(がらん・寺院の主要建物群)を構成する重要な建物です。漢陽寺創建当時の南北朝時代室町時代)には伽藍構成(山門、法堂、方丈、庫裡、鐘楼)が成立していたとのことです。【他の写真】

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大書院「聴流殿」。特別に中に入れてもらいました。この大書院は、作庭家・重森三玲氏が設計した建物です。川が流れる音が聴こえる書院ということから重森氏自身が「聴流殿」と命名しました。大書院の前には、重森氏が作庭した「瀟湘八景の庭(しょうしょうはっけいのにわ」(非公開)がありました。【他の写真】

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鐘楼。重森三玲氏が設計。昭和50年に落慶。重森氏は以前から東大寺の鐘楼(国宝)は素晴らしいと話していて、漢陽寺のこの鐘楼は、それに倣(なら)ったものです。垂木は煩悩の数、108本使用。梵鐘の鹿曼荼羅のデザインも重森氏によるものです。梵鐘の音響設計は、音響学の権威、青木一郎博士が手掛けたそうです。【他の写真】

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潮音洞(ちょうおんどう・山口県指定文化財)。本堂の裏山にありました。江戸時代初期の1654年、当時の代官・岩崎想左衛門重友が錦川上流から水を引くために作った導水路です。当時、鹿野の中心集落は高い台地で、水に苦労していました。そこで、重友は私財を投じて人を雇い、1651年から4年の歳月をかけ、錦川上流からの水路200mと漢陽寺本堂の裏山に90mのトンネルを掘り、導水路を完成させました。そこから用水路で水を送り、現在まで、300年以上も清らかな水が鹿野を潤しています。現在は、漢陽寺からの水路約550mが「清流通り」として、癒しの観光スポットになっています。「潮音洞」と「清流通り」は「平成の名水百選」に認定されています。【他の写真】

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消災石(しょうさいせき)。法堂の庭の隅にポツンとあるので、説明を受けなければ、見逃されるような石でした。【伝説】ある夜、漢陽寺の開山・用堂明機禅師は、寝ている寺僧を起こすと、「私が若き頃、修行した中国の寺が燃えている。あの石に水をかけなさい!」と、その庭石に鏡池の水をかけさせました。3年後、中国の寺から「3年前の火事の際には御助力かたじけなし」と礼状が届きました。以来、消災石は「災いを消す石」とされ、現在でも、折に触れ水をかけ祈願されています。【他の写真】

f:id:nagisa777aoi:20210427155441j:plainTRF 「masquerade」