何でも見てやろう!瀬戸内海の小さな旅!

瀬戸内海を気の向くままドライブ! 名所、イベント、自然、街並み、建築物、夜景などなど、何でも見て回ります! 写真撮りの旅! 瀬戸内海の歴史的人物・著名人、数々の伝説も紹介していきます。

清流通り(2)水車小屋~鹿野総合支所(山口県周南市鹿野上)

「清流通り」の水車小屋を通り過ぎました。鹿野総合支所まで歩いて行きます。山頭火の「どうしようもない私が歩いている」の句の如く、ぶらぶらと歩いて行きます。この「清流通り」は鹿野の観光スポットとして整備され、平成6年に完成しました。

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二所山田神社(にしょやまだじんじゃ)入口までやって来ました。明治時代の二所山田神社21代目宮司、宮本重胤(みやもと・しげたね)は、神道には女性をけがれとみなす思想がなかったことから、いち早く”男尊女尊”を唱え、女性神主の登用と女性の地位向上を主張しました。【他の写真】

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二所山田神社前には「女子道」の石碑がありました。明治38年、宮本重胤宮司は女性の自立のための全国組織「大日本敬神婦人会」を設立。明治39年、その機関誌「女子道」を発刊(昭和17年まで)し、女性の地位向上と女性の権利を擁護する主張を展開、女性参政権も提言しました。また、おみくじを、これらの活動資金として充当するため「おみくじの自動販売機」を開発しました。【他の写真】

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神社の近くには、ツバキ、サクラ、リキュウバイなどが美しく咲いていました。二所山田神社22代目宮司、宮本清胤(みやもと・きよたね)は、硬貨を投入すると、灯籠に灯が燈り、音楽が鳴り出し、おみくじが出るという新型の自動販売機を開発しました。これにより、これまで一部の神社でしか用いられなかったおみくじが日本全国に普及しました。

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清流通り沿いの花壇にはキンセンカが可愛らしく、生き生きと咲いていました。反対側には堀もあり、丸い花壇に季節の花が植えられていました。そのほか色んな花々が通りに彩を添え、私達の身も心も軽やかにしてくれました。【他の写真】

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龍雲寺前まで来ました。寺の前には弁天池があり、庭園「錦鹿苑」が静かに広がっています。秋には紅葉も楽しめるそうです。【他の写真】

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臨済宗・本生山龍雲寺(りんざいしゅう・ほんせいざんりょううんじ)。室町時代の1408年(応永15年)に大内氏により開基されました。その後、陶氏(すえし)の家臣・江良氏の居館跡であったことが平成3年の調査で確認されました。【他の写真】

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龍雲寺石垣。城のような立派な石垣ですが、この石垣は江良氏の居館当時のものと言われています。

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終着点(または起点)の周南市鹿野総合支所まで辿り着きました。左上から枝垂れている「弾正糸桜」が私達を迎えてくれました。樹齢300年以上のシダレザクラ(イトザクラ)です。高さ約8メートル、目通り(人の目の高さの幹の太さ)の周囲は約2メートル70センチで、ともに山口県内一です。ちなみに、このシダレザクラが戦国武将・陶晴賢(すえ・はるかた・大内氏の家臣)の重臣、江良弾正(えら・だんじょう)の居館跡の土塁跡にあることから「弾正糸桜」と名付けられました。

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周南市鹿野総合支所。中には山口銀行もありました。この鹿野総合支所は老朽化の為、解体され「人を呼び込む新たな観光拠点」として整備される予定です。高原の町、鹿野町は1955年に約9000人だった人口が、現在は約3000人です。平成15年4月に、徳山市新南陽市、熊毛町、鹿野町が合併し周南市となりましたが、その後も鹿野地区の人口は毎年100人近く減少しています。そのため周南市は、この鹿野総合支所の場所を観光拠点とする鹿野地区・観光振興プランを作成しました。なお、鹿野総合支所は旧鹿野公民館跡地に移転・新築されます。【他の写真】

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鹿野総合支所前には、岩崎想左衛門重友(いわさきそうざえもんしげとも)の像がありました(平成6年に建立)。江戸初期、台地にある鹿野村は年中水不足で苦しんでいました。代官・岩崎想左衛門重友は毛利藩の許可を得て、莫大な私財を投じ、錦川の支流・渋川の水を引く工事を村人と共に行い、さらに漢陽寺の裏山の岩盤を約90mくり抜きトンネルを造り導水路を完成させました。これが「潮音洞(ちょうおんどう)」です。工事は困難を極め1651年着工から1654年に完成するまで4年かかりました。この「潮音洞」から鹿野村に用水路が引かれ、鹿野台地は水に潤いました。ちなみに、この「潮音洞」という名称は水路完成から約150年後に当時の漢陽寺住職が読んだ漢詩「観音経」から引用されました。【他の写真】

f:id:nagisa777aoi:20210521111659j:plain沢田聖子「親愛なる人へ」