何でも見てやろう!瀬戸内海の小さな旅!

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アスピラート(5)“昭和の歌謡作曲家” 「大村能章の部屋」(山口県防府市戎町、笑顔満開通り)

防府市のアスピラート2階にある「大村能章の部屋」を訪れました。防府市出身の大村能章(おおむら・のうしょう)は中山晋平古賀政男等と一世を風靡した昭和の歌謡作曲家です。その作品数は8000曲とも言われています。「大村能章の部屋」には大村能章の作品1000曲の検索演奏(ヘッドホンにより聴くことができます)。また、遺品30点、パネルによる生涯や作品などが展示・紹介されています。【他の写真】

 

 

大村能章は1893年(明治26年)12月13日、山口県防府市多々良に米穀商「大村商店」の長男として生まれました。本名は大村秀弐(しゅうじ)。松崎尋常小学校時代はバイオリンを独学で弾いていました。宗洞宗第四中学校から横須賀海軍軍楽生となり、首席で卒業しました。16歳で横須賀海軍軍楽隊に入隊。大正9年御園ツネ子と結婚。【他の写真】

 

 

大正10年除隊し帰郷。大正15年、家族を連れて上京。作曲家を目指しました。昭和6年東京九段に「日本歌謡学院」を創設。昭和10年「旅傘道中」(歌・東海林太郎)が40万枚の大ヒット。昭和22年日本音楽著作組合(後の日本音楽著作権協会)を設立。昭和33年日本作曲家協会設立に参画。山口県の「長州音頭」「防府行進曲」「下関小唄」「宇部小唄」「湯田小唄」「柳井小唄」をはじめ日本各地のご当地ソングを作曲しました。また、「多々良学園高等学校」などの校歌、社歌、コマーシャルソングなども多数作曲しました。【他の写真】

 

 

大村能章は海軍で鍛えた強靭な体格、豪放磊落な性格でした。反面、優しく、面倒見の良い人でした。歌謡界の「大久保彦左衛門」と呼ばれていました。昭和37年1月23日肺ガンのため死去。享年69歳。千葉県の「八柱霊園」にお墓があります。防府市の佐波神社に大村能章顕彰碑が建っています。【他の写真】

 

 

大村能章が作曲した代表曲は、「麦と兵隊」(美空ひばり鶴田浩二)、「旅傘道中」(東海林太郎北島三郎天童よしみ)、「明治一代女」(船橋喜代三・北島三郎美空ひばり)、「博多夜船」(音丸)、野崎小唄(東海林太郎・村田英雄)、「お夏清十郎」(二葉百合子)、「同期の桜」(美空ひばり)などなど。【他の写真】

 

 

【下の写真の掛軸には「麦と兵隊」の歌詞が書かれていました】自身が作曲した「同期の桜」(昭和14年「戦友の唄(二輪の桜)」としてリリース)については、大村能章は死ぬまで自分が作曲したと口にしなかったと言われています。西城八十の少女小説「二輪の櫻」(少女俱楽部)の巻頭詩(西城八十作詞)にメロディを付けた「戦友の唄」が、後に替え歌となり「同期の桜」として歌われるようになりました。「同期の桜」を歌った歌手は、美空ひばり鶴田浩二松方弘樹、春日八郎、北島三郎など。【他の写真】

美空ひばり「同期の桜」