松山市立子規記念博物館。松山市出身の俳人・歌人、正岡子規を記念して1981年4月オープン。正岡子規の資料や、松山の歴史・文学が展示されている文学館です。
子規記念博物館入口、子規像。正岡子規は、慶応3年10月14日、松山市生まれ。東京大学予備門、第一高等中学校本科卒業、東京帝国大学文科大学哲学科入学。同大学を退学、日本新聞社入社。日清戦争に記者として従軍、喀血、松山に帰郷、療養。明治35年9月19日結核で病死。享年34歳。
1階ロビーから2階展示室へ上がる階段には、子規の横顔の大きな写真が掲げてあります。子規は俳句、短歌、小説、評論、随筆など創作しました。
1階ロビー。正岡子規の「子規」はホトトギスの異称。子規の俳句「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」はよく知られています。この句は、お金の工面や子規の世話をよくしてくれた夏目漱石の「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」の句への、返礼の句です。
子規記念博物館2階、コーヒーショップ「みずきの花」。子規が東京帝国大学文科大学哲学科をやめた時、「哲学というのはわけがわかんらんぞなもし。わしには手に負えん」と言ったそうです。
子規記念博物館3階、「愚陀佛庵」復元模型。「愚陀佛庵」は、明治28年、夏目漱石が英語教師として旧制松山中学校に赴任した際、6月から下宿していました。日清戦争で記者として従軍した正岡子規は、明治28年、帰路、喀血し神戸で療養後、松山に帰郷し、8月27日、漱石の下宿である「愚陀佛庵」に移りました。
子規記念博物館3階、実物大に再現された「愚陀佛庵」1階。子規と漱石は、東大予備門で知り合い、親友になりました。「愚陀佛庵」では、漱石が2階、子規は1階に居住しました。子規は、52日間、ここで漱石とともに過ごしました。
子規記念博物館3階、実物大に再現された「愚陀佛庵」1階の子規の部屋。子規はここに起居して、「俳諧大要」を書き、当時の俳句結社「松風会」の会員約30名を日夜指導しました。
子規記念博物館3階、実物大に再現された「愚陀佛庵」1階。夏目漱石も、自らの俳号を「愚陀佛」と称し、俳句に熱中しました。それでこの下宿は「愚陀佛庵」と命名されました。命名者は、漱石であるという説と、子規であるという説の、2説に分かれています。
子規記念博物館1階、ミュージアムショップ。子規関連書籍、子規博物館オリジナルバッグ、ピンバッジ、しおり、封筒、便せん、はがき、文具、雑貨、「なじみ集」復刻版などを販売していました。
夏目漱石と正岡子規、柳原極堂(松山市出身の俳人、子規に指導を受ける)の等身大写真。来館者はここで記念写真を撮ることができます。昔の人は小さかったので、背丈を合わせるため膝を折り曲げて撮ってもらいました。
道後公園の麓にある、子規記念博物館の周辺は、小川が流れ、遊歩道を散歩できます。
子規記念博物館前にある、子規の歌碑。明治28年以来、カリエスのため左腰骨が痛みだし、以後、死去するまでの8年間、子規はほとんど病床にありました。そのような境遇の中で、明治31年、この望郷の歌を詠みました。