【30歳頃の林忠彦・1940年代後半(写真は<「時代を語る 林忠彦の仕事」 光村推古書院・2018年>より】 林忠彦<はやし・ただひこ・1918年(大正7年)3月5日~1990年(平成2年)12月18日・享年72歳>は山口県周南市出身の写真家です。昭和を代表する写真家の一人で太平洋戦争後の日本の風俗、文士、風景など多角的な撮影を行い功績を残しました。今回は周南市美術博物館2階にある林忠彦記念室を巡り、彼の精神世界に触れてみたいと思います。【他の写真】

【林忠彦記念室入口(周南市美術博物館2階)】 周南市出身の写真家、林忠彦の軌跡をたどります。ビデオも視聴できます。入口を入ってすぐの正面の壁には、林忠彦の30歳頃の写真家として象徴的なシーンの大きな写真が目につきました。【他の写真】。

【林忠彦記念室内部】 彼の作品や写真撮影のカメラ、道具などが展示されています。展示室内には、後に世に知れ渡った写真、太宰治を撮影した銀座のバー「ルパン」のカウンターも再現されていました。私も太宰治の著書はかなり読んでいますので、とても興味深かったです。著書を読んで、太宰治の悲劇的な不安定な人生(2回の自殺未遂、2回の心中未遂、3回目の心中で死去)は、幼少期からの生家(青森県五所川原市、現在は「斜陽館」)との関係が大きな影響を与えていると感じさせられました。【他の写真】

【林忠彦記念室内部・銀座のバー「ルパン」のカウンター席(再現)】 林忠彦は東京・銀座のバー「ルパン」によく通って、そこにいる文豪の写真を撮影しました。そのバーのカウンター席ですが、再現して造られたものです。太宰治、織田作之助、坂口安吾の写真もあります。この3人は第二次世界大戦の戦後の混乱期に既存の道徳や価値観を否定して、人間本来の姿を描き出した「無頼派」の代表的な作家です。そのような作家の精神を林忠彦は写真で表現しようとしたのです。3人の作家は、お互いに深い交流があり、酒を飲みながら談義を交わしていました。けれども、1947(昭和22年)織田作之助が死去(33歳)、1948年(昭和23年)に太宰治が心中(39歳)。1955年(昭和30年)には坂口安吾も脳出血で死去(48歳)しました。【他の写真】

【「東海道」撮影時林忠彦が使用した車椅子や撮影機材】 林忠彦は1985年に肝臓ガンが発覚し、医者からは余命1か月と宣告されました。けれども自ら「余命5年」と宣言し、最後の仕事と覚悟を決めて撮影に挑んだ作品が「東海道」です。その後脳内出血にも見舞われ、車椅子での移動を余儀なくされましたが、四男・林義勝氏の手を借りながら、失われていく江戸の面影を探し、約5年間をかけて、江戸(日本橋)から京都(三条大橋)まで、何度となく足を運び写真撮影を行い、105点の作品を写真集「東海道 林忠彦写真集」(1990年)に収録しました。ガンと闘いながらも強い精神で追及した芸術的な写真の世界を完成させたライフワークです。【他の写真】

【「杉並木」(左)と「平安神宮」(右)】 林忠彦の作品「杉並木」(箱根)と「平安神宮」(京都)は、「東海道 林忠彦写真集」に収められています。この芸術的な写真は、とても美しく、林忠彦の精神世界の奥深いものが表現されていて、私には眩しい位に尊く感じられました。このような写真は私にはとても撮れません。けれども、最近、いつか将来、自分自身で撮影(希望的観測)して、私の写真集「アドマイア」に収録したいシンガーがいます。ハニ(NewJeans)は21歳なのに3か国語も話せる秀才で容姿端麗、飾らない素直な性格で思いやりもあります。自分のいじめ問題に対しても真っ向から取り組む強靭な精神の持主です。まさに私のアドマイア(憧れ)です。ハニは「青い珊瑚礁」(松田聖子)も歌って、日本人にも人気があります。現在はオーストラリア在住。【他の写真】

【林忠彦の写真が掲載された月刊誌・雑誌・写真集など】 林忠彦は人物写真にこだわりました。人物のまわりに周辺環境を取り込み、その生活やキャラクター、精神さえも写し取る手法は独自のものとなりました。彼の声望は全国に広がりました。さらに昭和55年の「長崎」以降は、1枚の写真風景から物語が見えてきます(画面から人物が消えましたが、風景を通して、人の歴史や生き様、精神が見えてくるのです)。「長州路」「西郷隆盛」「東海道」へと連なる写真群がそれです。【他の写真】

【林忠彦賞コーナー】 林忠彦賞は、戦後写真界に大きな足跡と精神を残した写真家・林忠彦の業績を記念して、周南市と公益財団法人周南市文化振興財団が1991年(平成3年)に創設しました。1996年(平成8年)には第46回日本写真家協会文化振興賞を受賞しています。【他の写真】
