何でも見てやろう!瀬戸内海の小さな旅!

瀬戸内海を気の向くままドライブ! 名所、イベント、自然、街並み、建築物、夜景などなど、何でも見て回ります! 写真撮りの旅! 瀬戸内海の歴史的人物・著名人、数々の伝説も紹介していきます。

上関海峡(2)上関城山歴史公園さくらまつり(山口県熊毛郡上関町大字長島10044-1)

【上関城の主郭のあった丘の上から上関城山歴史公園(かみのせきじょうやまれきしこうえん・標高58m)の曲輪(くるわ)跡地を望む】 コロナで中止されていた上関城山歴史公園さくらまつり(河津桜)が2月23日から開催中(3月上旬まで)。私達は2月下旬、同公園さくらまつりの花見に来ました。ところが約180本の河津桜の開花はまだ3分咲で、来場者もまばらでした。3分咲でしたが、それなりに美しく、楽しめました。【他の写真】

 

 

【階段を上がって冠木門(かぶきもん)を通り上関城の主郭跡の丘に上がります】 冠木門の河津桜も3分咲位です。2019年(平成31年)2月下旬、「第9回さくらまつり」に来た時には、桜が満開で絶景の上関海峡を見降ろす名所、上関城山歴史公園は約6000人(24日)の花見客であふれていました。今年は桜の開花が遅れていて、さくらまつりの期間は3月5日までが3月上旬まで延長されました。【他の写真】

 

 

【上関城山歴史公園・冠木門(上関城に冠木門はありませんでした。観光用に造られた門です)】 15世紀中頃(室町時代)に村上吉敏により築城された上関城は南北朝時代から戦国時代にかけて活躍した村上水軍の海城(うみじろ)です。海城は瀬戸内海に多く見られます。村上水軍の海城、上関城は上関海峡を監視し、通過する船から通行税を徴収していました。この権利は大内氏から保証されていました。【他の写真】

 

 

【冠木門から城の主郭跡の丘を望む。当時の主郭は高さ15~6mの高台の上に建てられていました。現在のこの丘は削られたもので、半分位の高さしかありません】 1551年(天文20年)大内義隆(おおうち・よしたか=大内氏第16代当主)が陶晴賢(すえ・はるかた=大内氏家臣)により滅ばされると、村上水軍は毛利氏の傘下に入りました。その後、1588年(天正16年)豊臣秀吉の海賊停止令により上関城は廃城となりました。【他の写真】

 

 

【上関城山歴史公園、城の主郭跡側の遊歩道。上関海峡が望めます】 上関城の主郭跡の丘の土手には桜の下に黄色い早咲きの水仙も可憐な花を咲かしていました。公園には約4000球の水仙が植えられています。現在、上関城山歴史公園には上関城の痕跡はありませんが、1996年(平成10年)に発掘調査が行われ、城の構造が判明しています。城は南北約65m、東西約8~20mのひょうたん型で、南側の最高所に主郭、中央に曲輪(くるわ=貯蔵施設など)、北端に北高台が設置されていました。【他の写真】

 

 

【城の主郭跡の丘の土手から上関海峡と皇座山(おうざさん)を望む】 上関海峡のこちらは長島(上関町)で、向こうは室津半島(上関町)です。見えませんが右端に上関大橋が架かっています。室津半島の先端に聳える大きな山は皇座山で標高527mの火山です。1185年(元暦2年)源平合戦周防の戦いで源氏に敗れた平家は、安徳天皇を守りながらこの山を越えて赤間関(下関)へ向かいました。その時、安徳天皇はこの山の山頂で一休みしました。この由縁から「皇の座する山」と呼ばれるようになりました。【他の写真】

 

 

【城の主郭跡の丘を降りて曲輪(くるわ)跡地を通り、上関城山歴史公園北端の高台跡の物見台に向かいます】 桜の花道を通って北に向かいます。満開の桜も絢爛で華やかですが、3分咲の桜も初々しい美しさで、私達を十分に楽しませてくれました。【他の写真】

 

 

【上関城山歴史公園北端の高台跡の物見台周辺】 高台跡の物見台にやって来ました。周辺には石垣が組まれています。来場者が少なかったので、ゆったりとした感じで散策できました。【他の写真】

 

 

【上関城山歴史公園北端の高台跡の物見台】 瀬戸内海を望めるこの物見台は人気のビュースポットです。この公園は1996年(平成10年)に上関城の発掘調査が行われましたが、その後、平成15年から19年にかけて上関城山歴史公園として整備されました。【他の写真】

 

 

【物見台から瀬戸内海を望む】 右手の海が上関海峡入口で山々が室津半島です。左手の山は長島の一部です。【他の写真】

 

 

【上関城山歴史公園入口広場には露店も出ていました】 2019年(平成31年)2月下旬のさくらまつりの時は多数の露天が出て、店の前には行列ができていましたが、コロナの影響で、今年は少ないようです。【他の写真】

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