何でも見てやろう!瀬戸内海の小さな旅!

瀬戸内海を気の向くままドライブ! 名所、イベント、自然、街並み、建築物、夜景などなど、何でも見て回ります! 写真撮りの旅! 瀬戸内海の歴史的人物・著名人、数々の伝説も紹介していきます。

安芸の小京都・竹原(9)エデンの海パーキング・展望台(広島県竹原市忠海長浜3丁目18)

【国道185号線からエデンの海パーキング・展望台を望む】 私達は、たけはら町並み保存地区から海岸線(国道185号線)に出て、車で東へかなり走って、エデンの海パーキングにやって来ました。このパーキングは、1998年4月にオープンしました。広島市出身の作家・若杉慧(わかすぎ・けい・1903~1987年)の小説「エデンの海」(1946年)は映画「エデンの海」として3回も映画化されました。このパーキングのすぐ近くにあった旧制広島県忠海高等女学校(現・忠海高校)が小説の舞台となっています。【他の写真】

 

 

エデンの海パーキング横の砂浜からエデンの海忠海沖)を望む】 「エデンの海」は、瀬戸内海を望む高等女学校に東京から赴任してきた若き生物教師・南條と、両親のいない自由奔放な女子生徒・巴を中心とした女子生徒たちの物語。高等女学校と寄宿舎を舞台にした青春物語ですが、純粋な青春ものではなく、同性愛やエロティシズム、嫉妬や対立など、高等女学校の内面をリアルに描いています。【他の写真】

 

 

エデンの海パーキング・展望台】 作者の若杉慧は明治38年8月29日広島県安佐郡戸山村(現・広島市安佐南区)生まれ。大正12年広島高等師範学校(現・広島大学教育学部)を卒業。大正15年(23歳)から昭和2年まで教師として忠海高等女学校に勤務。その時の経験をもとに「エデンの海」は執筆されました。【他の写真】

 

 

エデンの海展望台】 昭和2年若杉は神戸市の神戸尋常高等小学校に勤務しました。この時、若杉は忠海高等女学校勤務時代に知り合った野村マサ子(同僚の教師)と同棲を始めました。長男が生まれ、昭和3年マサ子と結婚しましたが、昭和4年マサ子が病死。この時から若杉は教師を続けながら作家活動に入りました。【他の写真】

 

 

エデンの海展望台に登ります】 若杉は昭和21年(1946年)に「エデンの海」を書き、「朝日評論」に連載。昭和22年「エデンの海」の単行本が文化書院から刊行されました。昭和23年広島商船学校を退職し、以後文筆活動に専念しました。【他の写真】

 

 

【「エデンの海」記念碑】 1997年9月に建立されました。記念碑の右側には、脚本家・高橋玄洋(たかはし・げんよう・1929年~・島根県松江市出身)が記した由縁版もありました。【他の写真】

 

 

エデンの海展望台より瀬戸内海のエデンの海忠海沖)を望む】 この展望台からは、瀬戸内海のエデンの海忠海沖)にある、大久野島大三島、小久野島、松島、神殿島、生野島、大崎上島など大小さまざまな13の島が見えました。瀬戸内海では、最も島が密集している海域です。とても美しい海でした。【他の写真】

 

 

エデンの海展望台・東屋より国道185号線方面を望む】 映画「エデンの海」は昭和25年(松竹)、昭和38年(日活)、昭和51年(東宝)に、3回映画化されています。また、昭和37年には日本テレビ系列の「武田ロマン劇場」でテレビドラマとしても放送されています。

 

 

エデンの海展望台・東屋よりエデンの海忠海沖)を望む】 私達はこの東屋で美しいエデンの海を眺めながら一休みしました。竹原の旅も、残すは「かぐや姫美術館」のみとなり、終わりに近づいてきました。ちなみに「エデン」はヘブライ語で「楽しみ」という意味です。「エデンの園」は、神話では、神によってつくられた最初の人間であるアダムとイブが最初に住まわされた楽園です。けれどもアダムとイブは神によって禁止されていた「善悪を知る樹」の実を食べてしまったので、この楽園から追放されたのです。【他の写真】

 

 

エデンの海展望台より忠海高校(旧忠海高等女学校)を望む】 広島県忠海高等女学校は明治36年豊田郡立女子技芸学校として創立。大正9年豊田郡立豊田高等女学校となり、大正12年広島県忠海高等女学校に改称。昭和24年に旧制忠海中学校と統合し、広島県立忠海高等学校になりました。同校出身の著名人は、池田勇人内閣総理大臣)、高橋玄洋(脚本家)、加計勉(加計学園グループ創始者)、平山郁夫(画家)、林貞行(外務事務次官)など。【他の写真】

GARNET CROW 「今宵エデンの片隅で」