何でも見てやろう!瀬戸内海の小さな旅!

瀬戸内海を気の向くままドライブ! 名所、イベント、自然、街並み、建築物、夜景などなど、何でも見て回ります! 写真撮りの旅! 瀬戸内海の歴史的人物・著名人、数々の伝説も紹介していきます。

漢陽寺(3)高僧と名将と巨匠、古刹の礎の軌跡(山口県周南市鹿野上)

臨済宗・鹿苑山漢陽寺(ろくおんざん・かんようじ・杉村宗一住職)。法堂から本堂を望む。南北朝時代室町時代)の応安7年(1374年)、周防・長門石見国(中国地方)の守護大名・大内弘世(おおうちひろよ)がこの地に鹿苑庵(ろくおんあん)を建てたのが漢陽寺の起こりです。弘世公は石見の国の高僧、用堂明機禅師(ようどうみんきぜんじ)を懇請し、漢陽寺の初代住職に迎えました。その後、大内家26代当主・大内盛見(おおうちもりはる・大内弘世の6男)が当地に漢陽寺を開基・建立しました。【他の写真】

f:id:nagisa777aoi:20210504155254j:plain

 

 

本堂の須弥壇(しゅみだん)には中央にお釈迦様、左に開基・大内盛見公、右に開山・用堂明機禅師の像が祀ってあります。漢陽寺は明治初期まで、臨済宗用堂派の本山として、約200カ所の末寺を有していました。現在は京都東山の南禅寺が本山となっています。【他の写真】

f:id:nagisa777aoi:20210504155314j:plain

 

 

【用堂明機禅師(ようどうみんきぜんじ)の像】。用堂明機禅師(1303年~1386年)は肥前国長崎県)の大名、諫早氏の子。幼少期から仏門に入り、厳しい修業を重ねました。

f:id:nagisa777aoi:20210504155335j:plain

 

 

【漢陽寺・本堂】。用堂明機禅師は31歳の時、中国の杭州に渡り、中国五山最高位の寺、径山興聖萬壽禅寺(きんざんこうしょうまんじゅぜんじ)において高僧で名高い竺源遠大徳禅師(ちくげんおんだいとくぜんじ)に師事しました。11年の修行後帰国、九州に戻りました。【他の写真】

f:id:nagisa777aoi:20210504155352j:plain

 

 

【漢陽寺・玄関】。その後用堂明機禅師は諸国行脚の旅に出ました。石見国島根県)に滞在し御説法をしていたところ、当時周防・長門石見国守護大名・大内弘世公に招かれ漢陽寺初代住職になりました。【他の写真】

f:id:nagisa777aoi:20210504155411j:plain

 

 

【大内盛見(おおうちもりはる)の像】。大内氏26代当主・大内盛見公(1377年~1431年)が、この鹿野の地に漢陽寺を開基・建立しました。

f:id:nagisa777aoi:20210504155430j:plain

 

 

【山門から法堂を望む】。大内盛見は熾烈な大内氏お家騒動の戦いで勝ち残り、1404年周防・長門山口県守護職。1408年備後(広島県守護職を兼務。九州の反乱を平定後、1429年筑前(福岡県)代官。

f:id:nagisa777aoi:20210504155448j:plain

 

 

【法堂から山門を望む】。その後、大内盛見は備後国守護大名・大友氏らと筑前の領有をめぐって戦いとなり、九州に遠征。この戦で、連戦連勝の名将である大内盛見公は1431年筑前国で戦死しました。享年54歳。【他の写真】

f:id:nagisa777aoi:20210504155507j:plain

 

 

【漢陽寺庭園を作庭した重森三玲(しげもりみれい・1896年~1975年)氏】。明治29年(1896年)8月20日生まれ。岡山県加賀郡吉備中央町出身。作庭家で日本庭園史研究家でもあり、まさに日本庭園の巨匠。大正6年日本美術学校入学、日本画を学ぶ。西洋画の影響を受け抽象画を描きモダニズムを吸収。日本美術学校卒業後、東洋大学文学部に入学、インド哲学東洋史を学びました。生け花と茶道も習いました。【他の写真】

f:id:nagisa777aoi:20210504155532j:plain

 

 

重森三玲が作庭した漢陽寺の「曲水の庭(きょくすいのにわ)」(平安時代様式)】。28歳の時、重森三玲は、本名の計夫を三玲に改めました。心酔していたフランスの画家、ジャン=フランソワ・ミレーにちなんで三玲(みれい)にしたのです。その後、画家の道を断念し、日本庭園を独学で学びました。昭和11年から全国の庭園を実測調査、全国500カ所の名庭園、古庭園を調査、日本庭園史の研究家となりました。【他の写真】

f:id:nagisa777aoi:20210504155550j:plain

 

 

重森三玲が作庭した漢陽寺の「地蔵遊化の庭(じぞうゆうげのにわ)」】。昭和14年重森三玲は「日本庭園史図鑑」26巻を上梓。昭和51年には息子の重森完途(しげもりかんと・作庭家・庭園研究家)との共著「日本庭園史大系」33巻(別巻2巻)を完成、庭園史研究家として多大な功績を残しました。

f:id:nagisa777aoi:20210504155611j:plain

 

 

重森三玲が設計した漢陽寺の大書院と鐘楼】。作庭家として重森三玲が作庭した庭(約190庭)は全国にありますが、枯山水庭園が特徴的。自ら職人を擁し、直弟子も育成しました。代表作は、東福寺方丈庭園、光明院庭園、瑞峯院庭園など。晩年の代表作には、漢陽寺庭園、松尾大社庭園などがあります。昭和43年漢陽寺先代住職・杉村五由(すぎむらごゆう)氏が重森三玲氏に懇願、重森三玲氏は5年かけて漢陽寺に6庭園を完成させたのです。昭和50年3月12日死去。享年79歳。【他の写真】

f:id:nagisa777aoi:20210504155634j:plainFripside 「message」